(読書進捗なし)

先日読了した中西輝政中国外交の大失敗』に関して1点書いておきたいことがあった。

著者は、日中関係が悪化したきっかけを、2008年に中国が、鄧小平以来の外交の「十六文字方針」(冷静観察、沈着応付、韜光養晦、決不当頭――冷静に観察し、落ち着いて対処し、能力を隠し好機を待て、決して先頭に立つな)を見直し、中国は自らの力にふさわしい主張をすべきという「適切主張」へと考え方を転換したことに見ていたが、それはどこかわたしの実感と異なる。

わたしの記憶では(直感なので当てにならないが)、中国の反日感情のひどさを目の当たりにしたのは、2004年のサッカーアジアカップ重慶での試合だった(7月末頃だったか)。
スタジアムの大半を占める中国人サポーターが、試合内容とはお構いなしに、ただ日本チームを罵ることに熱中している映像をテレビで見た。
また、韓国に関して、韓流ブームの親密な空気に、急に冷たい風が流れたように感じたのは、2005年、島根県が「竹島の日」を制定したというニュースが流れたときだったように思う。
これらの出来事は、2008年よりも3、4年早い。

別に東アジア情勢悪化に関して自虐的意見を開陳しようというわけではないが、こうした中韓の動きに影響を与えたのは、おそらく2001年8月の小泉純一郎総理による靖國神社参拝だったと思う(今調べて気付いたが、小泉総理の靖國参拝は2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件よりも早いのだった)。

右肩下がりの君たちへ

ゴールデンウィークの最終日ぐらいまともなことをしようと思って、浴室の壁のタイルをたわしで擦ったりした。また、体重計が壊れていたので、ホームセンターへ買いに行った。

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佐藤優の対談集『右肩下がりの君たちへ』を読了。対談本はあっという間に読み終わってしまう。こうした本は電子書籍がいい。本棚を占領しないから。

ところで、佐藤優東浩紀は、互いに哲学(神学)知識を背景に現代日本を批判する仕事をしており、ジャーナリズムとアカデミズムの間にあって、自分のファンを囲い込むような活動(メールマガジン、友の会)をするなど多くの共通点がありながら、なぜ対談しないのだろうか。津田大介のように、両者を媒介できそうな言論人もいるはずなのに。

おそらくは、佐藤優が2002年に背任・偽計業務妨害容疑で逮捕・起訴された背景には、外務省内の親イスラエル派閥(佐藤)と親アラブ派閥の対立があり、2014年の北大生がイスラム国の戦闘員になろうとした事件以前から、佐藤がイスラム法学者中田考を厳しく批判しているのもその流れにあって、東は、中田と親しいジャーナリストの常岡浩介を自ら主宰するゲンロンカフェに招くなどしていたことから、佐藤が東に対して距離を置いているというのがその理由ではないか。

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今井雅晴『捨聖 一遍』読了。

菩提寺(といっても高々3代前からなのだが)が時宗なので読んでみたが、一遍の行跡を知っても、その教えを自分の生きる指針としていこうという気持ちが(今のところ)起きない。鎌倉時代の一つの宗教現象といった冷めたとらえ方しかできないのだ。
つまるところ、同時代(鎌倉時代)の一遍信仰というのは、著名人と直接会って直接お札(念仏札)をもらいたい、自分は奇跡(奇瑞)を見たと皆に知らせたい、念仏を唱えて(信心を口実にして)皆で踊りたい、御利益を得たいといった、現代と変わらない日本人の浅ましい大衆現象のように見える。

一遍は、「捨離」を自ら実践し、自らの死後、弟子が後を継ぐことを望まず、死の前には書籍を焼き捨てるなど、高潔で頑固な人格であったようだが、それはそれとして、たまたま弟子が師の意志に反して信者を組織化し時宗を興した(また「一遍聖絵」を作成した)ために名が残ったものの、本来は時とともに消えていった数多くの一代限りの霊能力カリスマの一人に過ぎないように思える。

というか、一遍の教えは、仏教という世界宗教が日本で民族宗教に転化した一例に過ぎないように見えてしまうのだ(無論、民族宗教を低いもののように捉えるのは、単にわたしが傲慢だからであるが)。

捨聖 一遍

時宗の総本山、神奈川県藤沢市にある清浄光寺遊行寺)へ行った。

敷地内にある博物館を見たが、一遍聖絵の現物の展示はなかった。何ともタイミングの悪いことだが、昨年末に3会場を使って公開されていたらしい。次に見られるのはいつになることか。

今井 雅晴『捨聖 一遍』を読み進めている。事実に関することは、「…であると言われている」などと客観的な書き方なのに、当時の人々の心の中に関することは断定調で書かれているのが気になる。まあ、学術的ではなく、時宗の開祖に崇敬の気持ちを抱く善良な一般庶民向けの本なのだろう。

なぜ、一遍に関する本を読んでいるかといえば、曾祖父と祖父の骨が納められた墓が時宗の寺院にあるのだった。

妹は、法事や親戚付き合いを厭う冷たい女で独身だが、「わたしは自分が死んだら無縁仏でいいや」と言っていた。が、それこそが捨聖(すてひじり)一遍の教えに近いのではないかという気がする。

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(追記2016.5.19)

一遍と出会った人々の間では、華(花)が降るとか、紫雲が立つとかいった「瑞相」を見たという者が多く現れたという。現代の「怪奇現象」と同じだろうか。
これに対して、一遍は、「花の事ははなにとへ、紫雲の事は紫雲にとへ、一遍しらず、」コメントしたらしい。

現代でも、例えば東日本大震災や熊本地震などが起きると、「地震の前日に奇妙な形の雲を見た」「動物が異常な行動をしていた」といったことを触れて回る人たちがいる。
おそらく、大災害や戦争(元寇)など社会に不安が広がっている状況にいると、こうしたことを口にしたくなる人間が、いつの時代にもいるということなのだろう。

(読書進捗なし)

今日は連休の谷間だったが仕事へ行く。終業後は飲み会だったので読書の進捗はなし。
アマゾンを見ていて、以前持っていたが読まずに手元から離れていった『ウェイリー版 源氏物語』に興味が沸いた。


英語訳を日本語に訳しているため古文風ではなく、ヨーロッパの小説の和訳のような感じで源氏物語が読めるのが画期的だった。
Kindle版が出るとよいのだが、まだないようなので、今度図書館で借りようかな。

中国外交の大失敗

中西輝政中国外交の大失敗 来るべき「第二ラウンド」に日本は備えよ』を読了。

著者の名は福田和也が高く評価していた記憶があり、Kindleで購入した。
中国による謀略をテーマにした本は、“新書de真実”なのか“トンでも”なのか、素人の自分には内容だけで判別できない。

職業としての政治

しばらく遠ざかっていたが、また新たにBlogを登録してしまった。通算12個目…。

しかし、ここ数年の間の心境の変化を受けて、今回は本名と職業を隠さずに書く方針にしたいと思っている。

今日、マックス・ウェーバーヴェーバー)の『職業としての政治』(原著1919年)を読了。佐藤優の本でこの本を下敷きにしたものが書店にあったので、先に読んでみたもの。

マルクスでもトクヴィルでもそうだが、その本が書かれた時代の政治状況を知らないと、わかったつもりでいて全然理解していないということが多い気がする。この本も確か大学生の頃に手に取ったことがある。今は多少、20世紀初頭のヨーロッパの知識が自分の中で増したので、以前よりも理解が深まったと思う。

本書の後半、「心情倫理」と「責任倫理」というキーワードが出てきて、どうやら前者を未熟なものとし、後者を大人の政治家に必要な心構えであるように語っているのだが、ウェーバーが本書のもととなった講演の聴衆(心情倫理の持ち主)として思い描いていたのは、現代で言えば、SEALDsのような学生たちだったのだろうか。