琉球独立論は何を夢みるか

ニコニコ生放送(の再放送)で、「東浩紀 × 津田大介 × 熊本博之 × 親川志奈子 琉球独立論は何を夢みるか」(5月27日開催)を視聴する。

▼リンク(6月3日まで有料視聴可能)

http://live.nicovideo.jp/watch/lv261134114

 

パネラーの一人、琉球民族独立総合研究学会の理事である親川志奈子氏の(ぼくの印象では)過剰に防御的(論争的という点では攻撃的)な発言に辟易してトークイベント開始後約3時間はほとんど積極的な発言を拒んでいた東浩紀氏が、来場者からの「これからも、2回、3回と沖縄に来て議論をしてほしい」という声に答えて「ぼくは“面白い”と思ったら来る」として、次のようなことを話した。

本土の人間が、基地問題など、沖縄の人間を差別的に扱っていることは自明である。
しかも、そのことを本土の人間にわかってくれと言っても、動かないのも自明である。
そうだとすれば、ここには大きな違いがある。
これに対して、東京にいる人間としていろいろなポジションの取り方がある。

 

例えば、高橋哲哉さんであれば、「同じ同胞の一部に基地を押しつけているのだから、自分たちが引き取るべきだ」という発想になる。高橋さんの議論の前提にあるのは、沖縄人は同胞であるという意識だと思う(高橋さんがそうはっきり書いているわけではないが)。

 

ぼくはむしろ、高橋さんはまだ甘いのではないかと思う。実は本土の人間は沖縄の人を同胞だと思っていないのではないか。
次にいくのは、「それは責められることなのか」ということである。日本人は、別に中国人を同胞だと思っていないし、韓国人も同胞だと思っていないし、民族とはそういうものだ。
そうだとすれば、そこにはっきりと線があるのだから、線について議論し、――ここは親川さんと全く同意見だが――、線があるのにない振りをして“一緒に考えていきましょう”とかではなく、ぼくは本土から来た人間として、違う民族・歴史・文化を持っているこの琉球・沖縄という土地でどういう議論が起きるのかを見たい。
そのときに、歴史的に深く関わりがある本土の人間として、できることはやりたい。“同胞として一緒に考えていきましょう”と最初からぼくは思っていない。

 

そのときに、入り組んだ言い方になるが、ぼくはこう思う。
ぼくは日本語で仕事をしているが、弱点だと思うのは、日本語は、日本人が日本列島でしか使っていないので、東京で流行っているものはどの地方でも流行っていて、議論の多様性はあまりない。
その中で、琉球・沖縄は全然違う。平和記念公園で展示されている太平洋戦争の歴史観は、東京で語られている歴史観と全く違う。
ぼくは、これは、どちらが良いということ以前に、日本語という空間をすごく豊かにしていると思う。つまり、同じ言葉を喋っているように見えるけれども、全然違う歴史的背景があり、全然違う発想がある。沖縄の新聞を読むと、本土の新聞とは全然違う議論がされている。こういう多様性がある、違うことを考えている人たちがいることに出会うことは、本土の人間にとっても貴重な経験で、そう考えれば、本土の人間はもっと沖縄の問題に関心を持ってくると思う。


ぼくは、――暴論になるかもしれないが――、なまじ同じ問題を同じ感覚で共有していると思うから、本土の人間からすると、“沖縄のメディアは偏っている”とか、“沖縄の人間たちは全然偏った歴史認識を持っている”、“偏った社会認識を持っている”という発想になると思う。
別の国と言わないまでも、別の文化的アイデンティティを持っている、別の社会だと考えれば、「ああ、そういう人たちがいるんだね。ぼくたちはこういう考え方なんだね。じゃあお互い話し合っていこう。その上で、共通の問題について考えていこう」というスタンスがとれると思う。

 

そういう意味でぼくは今日は本土の人間として来ており、琉球・沖縄――どちらが政治的に正しいのかわからないけれど――の方に、どう考えるのかを聞きたかった。そして、本土ではこう考えられると議論し、コミュニケーションをしたかった。

以上が、ぼくの願いである。そういう機会があれば、これからも来る。そうありたいと望んでいる。

 

ここだけ切り出しても、なぜぼくの印象に残ったのかよくわからないと思うが、備忘録を兼ねて書き記しておく。

濹東綺譚

今更ながら、初めて永井荷風の『濹東綺譚』を読了。とはいえ、この小説の味は、歳を取らなければわからなかったであろう。

幾度か映画化されているらしいので、いずれ観てみたいと思った。もっとも、活動写真を見ない、という荷風の作品を映像で観るのは良いのか悪いのか。

     *     *     *

ところで、このHatena Blogのエディタだが、掌がキーボードの誤ったキーに触れたせいで、それまで書いていた文章が一瞬で消滅し復活できない、といったことが複数回あった。

一度書いた文章を書き直すほど不愉快なことはない。「やり直し」機能があることは知っているが、一瞬で複数のキーを押した結果消去された文字は復活できないようなのだ。Windowsのメモ帳であればそんなにひどいことは起きないので、こちらで書く習慣をつけなければいけない。

枕草子

いつの間にか中断していた『枕草子 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)』を久しぶりに再び読み始めた。

枕草子は、中学校の教科書に載っているせいか、登場人物の心は小中学生水準という印象があった。
しかし、実のところ、枕草子源氏物語の女たちは、現代のヤンキー少女たちよりも、内面では男女関係に激しいのであった。
そんなことを思うのは昨日から、木村朗子乳房はだれのものか―日本中世物語にみる性と権力』を(これも再び)読み始めたからで、それによると、枕草子源氏物語の登場人物の背景には、召人(めしうど)や乳母と呼ばれる身分の低い女性たちがおり、彼女たちは男性たちの性の対象でありながら、その産んだ子は相続の対象とならないという、男性にとって都合の良い存在だったのだという。

それはそうと、「枕草子」では次のような文章に心を動かされた(現代語訳)。

帝がお持ちの楽器には、琴にも笛にもみな珍しい名がついている。玄上・牧馬・井手・渭橋・無名など。また、和琴にも、朽目・塩釜・二貫など。水竜・小水竜・宇多の法師・釘打・葉二、その他たくさん聞いたが忘れてしまった。
「(楽器をほめて)それは宣陽殿の第一の棚に置くべき名器だ」というのは、頭の中将様(藤原斉信)の口癖だった。

どうしたこんな文章が、一千年の後にも残り、Kindleを通じてわたしの目に触れることになったのか、と思うと驚き、感激させられる。(といっても伝わらないと思うので、そのうち説明したい)

 

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

宮台真司私たちはどこから来て、どこへ行くのか』を読了。読むのに時間がかかり過ぎて全体像が頭に浮かばない。こうした本は、電子書籍ではなく紙の本で買うべきであった。

全般的な印象として、宮台氏の本は、(1)現在の社会に対する問題意識、(2)現代社会を読み解くために参照する書籍、(3)解決に向けた方策、とあった場合に、(1)と(2)と(3)との間に飛躍がありすぎたり、説明の必要性に比べて文章の分量が過剰である場合があることなどが難点だ。

しかし、それにも関わらず、時間をかけて理解したいと思わせる魅力がある。

言ってはいけない 残酷すぎる真実

橘玲言ってはいけない 残酷すぎる真実』を読了。

双生児の研究から、子供の成長に子育てや教育は関係しておらず、遺伝(生まれ付き)がほとんど全てであるという主張には関心を持った。

ただ、本書全体を通じて気になったのは、記述の引用元がきちんと記されているパートがある一方で、ほとんど示されていない部分もあることだ。

(読書進捗なし)

橘玲言ってはいけない―残酷すぎる真実―』を電子書籍で読み始めた。

なぜか以前から犯罪気質の遺伝といったテーマに興味があり、福島章の『犯罪心理学入門』『犯罪精神医学入門ー人はなぜ人を殺せるのか』といった本を読むのが好きだった。

とはいえ、人間の運命のほとんどが遺伝で決まっている、といった説は、生理的には好きではない。こうした本が出版されるのも、現在の日本が長い経済低迷の中にあり、排外主義的な空気に包まれていることと強い結び付きつきがあるのだろうか。

四百字十一枚

坪内祐三四百字十一枚』を読了。

坪内のような生き方に憧れる。

学生の頃はわからなかったが、日本では「業界」が小宇宙であって、例えば、自分の会社の悪口を言うことには誰も本気で怒りはしないが、業界の悪口を言う若輩者は、心から嫌われ軽蔑される。お前なぞは(小宇宙から)出て行けと言われる。

若者の、自分は何の職業に就きたいのか、それを通じてどう生きたいのかという問いは、「身を置く業界をどこにするか」に置き換えて考えるべきだ。
だから、例えば坪内のように、本やそれにまつわる人々全体が好きなのであれば、研究者になるとか作家になるとかに拘らず、(自意識過剰の学生ならば嫌がるだろう)サラリーマン編集者でもライターでも、とにかく出版業界、出版流通業界で生きると決めるべきなのだ。

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マドンナの2003年のアルバム「American Life」を聴いている(当時マドンナ44歳)。わたしが好きなのは「Nothing Fails」。歳を取るととるともに、ロックやポップスで心を動かされることが少なくなったのは悲しい限りだ。