右肩下がりの君たちへ

ゴールデンウィークの最終日ぐらいまともなことをしようと思って、浴室の壁のタイルをたわしで擦ったりした。また、体重計が壊れていたので、ホームセンターへ買いに行った。

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佐藤優の対談集『右肩下がりの君たちへ』を読了。対談本はあっという間に読み終わってしまう。こうした本は電子書籍がいい。本棚を占領しないから。

ところで、佐藤優東浩紀は、互いに哲学(神学)知識を背景に現代日本を批判する仕事をしており、ジャーナリズムとアカデミズムの間にあって、自分のファンを囲い込むような活動(メールマガジン、友の会)をするなど多くの共通点がありながら、なぜ対談しないのだろうか。津田大介のように、両者を媒介できそうな言論人もいるはずなのに。

おそらくは、佐藤優が2002年に背任・偽計業務妨害容疑で逮捕・起訴された背景には、外務省内の親イスラエル派閥(佐藤)と親アラブ派閥の対立があり、2014年の北大生がイスラム国の戦闘員になろうとした事件以前から、佐藤がイスラム法学者中田考を厳しく批判しているのもその流れにあって、東は、中田と親しいジャーナリストの常岡浩介を自ら主宰するゲンロンカフェに招くなどしていたことから、佐藤が東に対して距離を置いているというのがその理由ではないか。

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今井雅晴『捨聖 一遍』読了。

菩提寺(といっても高々3代前からなのだが)が時宗なので読んでみたが、一遍の行跡を知っても、その教えを自分の生きる指針としていこうという気持ちが(今のところ)起きない。鎌倉時代の一つの宗教現象といった冷めたとらえ方しかできないのだ。
つまるところ、同時代(鎌倉時代)の一遍信仰というのは、著名人と直接会って直接お札(念仏札)をもらいたい、自分は奇跡(奇瑞)を見たと皆に知らせたい、念仏を唱えて(信心を口実にして)皆で踊りたい、御利益を得たいといった、現代と変わらない日本人の浅ましい大衆現象のように見える。

一遍は、「捨離」を自ら実践し、自らの死後、弟子が後を継ぐことを望まず、死の前には書籍を焼き捨てるなど、高潔で頑固な人格であったようだが、それはそれとして、たまたま弟子が師の意志に反して信者を組織化し時宗を興した(また「一遍聖絵」を作成した)ために名が残ったものの、本来は時とともに消えていった数多くの一代限りの霊能力カリスマの一人に過ぎないように思える。

というか、一遍の教えは、仏教という世界宗教が日本で民族宗教に転化した一例に過ぎないように見えてしまうのだ(無論、民族宗教を低いもののように捉えるのは、単にわたしが傲慢だからであるが)。